夕方、Aさんから生存確認の電話。
電話で色々、雑多な話をしたけれど、昨日の日記に書いた失語症について、Aさんの場合は、人の名前が出て来ないそうです。
私も人の名前や顔を思い出せませんが、私の場合は最初の最初から人の名前や顔を覚えるのが大の苦手なので、ある意味、最初から覚える意思がないと言った方が正しいです。
例えば小説に登場する人物が多いと誰が誰か、こんがらがって判らなくなります。
外人の名前だとなおさらです。
私が、「最近の若い俳優の名前や顔が全く判らない」と言うと、Aさんはテレビドラマなどをよく見ているので、そこそこは判るそうです。
「紅白に出ている人で判るのは昔の人だけで最近の若い子は判らない」と言うと、「今年の紅白は面白かったですよ」と、Aさん。
色々話して分かったことは、Aさんはまだまだ頭が柔らかいということ。
それに引き換え、私の頭がガチガチということです。
昨年の12月28日に図書館で借りて来た5冊の本を今日、散歩がてらに返して来ました。
今回、返却した本で得たことは、今の人生を今のまま肯定して、今を楽しむということ、です。
早く言えば、なるようにしかならないのだから、です。
そして今回も、本を2冊、借りて来ました。
藤原緋沙子著の中・短編小説集「へんろ宿」と、冲方丁(うぶかたとう)著の感涙ショートストリー集「もらい泣き」です。
短編小説集の中の最初の一篇「へんろ宿」は読み終えましたが、もう一つでした。
上記の2冊以外に柚木裕子著のオムニバス短編集「チョウセンアサガオの咲く夏」を並行して読むつもりです。
今日も図書館で童話(絵本)を2冊、読みました。
1冊は、宮沢賢治作、中村道雄絵の「土神と狐」で、もう1冊は、山村浩二の「ゆめみのえ」です。
宮沢賢治の「土神の狐」は、子供では理解出来ないであろうと思われるような、切ない話でした。
「ゆめみのえ」は、かって聞いたことがあるという話でしたが、これまた、子供に理解できるのでしょうか。
読んで感じたことは、2冊とも大人の童話という感じで、心に残る話でした。
今日の図書館は何故か空いていました。
ちょっと寂しいくらいに。
でも図書館って最高に良いなと、私は思います。
知らない世界が凝縮された智の世界だと、私は思います。
図書館の帰りにライフに寄り買い物をして帰ったら(午後2時15分頃)、1階の郵便受けにはもう夕刊が入っていました。
それから昼ご飯を作って食べ終わったら3時過ぎ。
今、一所懸命に考えているけれど、昼に何を作って食べたかは、思い出せません。
トマトを食べたことだけは思い出せるのですが。
ちなみに、夜は、焼うどん(ソース味)を作って食べるつもりです。
明日も、楽しい、楽しい、一日が訪れますように。
今、思い出しました。
昼御飯のおかずとして食べたのは麻婆豆腐などでした。