かけふ日記

70代ゲイが世界の片隅で吠える

月曜日 線香花火と共に、はい、さようなら

今日の日記は、「白熊爺こと太めのふーさんの日」としました。

宜しくお願いします。

 

今日は、太めのふーさんから、転載許可済みのメールが来たので転載します。

ここからが、ふーさんから来たメールです・・・

 

こんにちは

暑い暑いという日が続いていますが、ふと気がつけば道端ではセミが仰向けになって力尽きています。

もう夏も終わりという物悲しさと、土中で人生の大半を過ごし、地上に出てきて一瞬で生命を燃え尽きさせるセミの生きざま。

なんとも切ないです。

セミの亡骸は目についたものはそっと木陰の草むらに置いてやらずにはいられない。

そう思ってしまうのは懸命に生きたセミに対する私のお弔いの気持ちなのでしょうかね。

 

先日、銭湯巡りの途中で十返舎一九のお墓がありました。

場所は勝どきという東京湾の埋め立て地です。

           

はて?

と私は思いました。

 

十返舎一九のいた江戸時代の頃は勝どきのあるこの場所はまだ海だったはず。

この辺りは明治以降の埋め立てで出来たはずです。

そんな埋め立て地の勝どきになぜ江戸時代の人のお墓が?            

 

調べてみたらこのお寺は元は浅草にあったそうですが関東大震災で被災して勝どきに移転してきたようです。

 

その十返舎一九のお墓には彼の辞世の句が刻まれているのですが

 

「此の世をは とりやお暇に 線香の 煙とともに 灰さようなら」

 

十返舎一九のシャレの効いた一句ですが考えようによっては

生きるということはつむじ風のように通り過ぎるものなのかなとも思います。

此の句を読んでそんな感じを持ちました。

 

そういう意味でも日々 今 此の瞬間をを大事に生きようという気にもなりましたね。

まぁ、私は嫌な事はしないという感じの生き方はしてるので、日々 悔いはほとんど無い感じですけどねw

 

かけふさんはこの句はどう感じました?

 

       ここまでが太めのふーさんからのメールでした。

 

セミの亡骸ですが、なんであんなにカラカラに乾燥して軽いのでしょう?

切ないですね。

 

ふーさんのメールに添付されていた写真です。

             

 

一九の辞世の句ですが、十分にやり たいことをやって此の世を去ると云う満足感と遊び心を表現していると、私は思います。

十返舎一九の面白エピソード の サイト1 と サイト2

辞世の句の「暇」の 読み方と意味

 

辞世の句の現代文ですが、サイト1では、「ぼちぼちこの世をお暇しますね。線香の煙とともに、ハイ! サヨウナラ」だそうです。

 

ふーさんが書いておられる、「日々 悔いはほとんど無い感じ」は、うらやましい限り。

私の場合、歩んできた道の跡は、「後悔の山」って感じでしたが最近は心を入れ替え、新しい生き方を模索している最中です。

人間だれしも、日々、進歩をし、生まれ変わることが必要です。

 

これからは話が替わります。

8月21日に載せた富士塚鐵砲洲稲荷神社の話です。

写真を見て直ぐに博学のAさんが言いました。

「氷柱を入れたプールで1月、禊(みそぎ)をする神社だ」と。

 

そこでネットで調べてみたら、本当のようです。

神社に関する  サイト と 動画1(約1時間30分) 動画2(56秒)

ふーさん、来年1月、もし出来たら行ってみたら・・・って感じです。

 

それともう1枚の神社の写真、私は「あさま神社」と思っていましたが、「せんげん神社」とも呼ぶようです。

東京 浅間神社 の サイト

 

今日の午後3時半頃、一階の郵便受けに夕刊を取りに行ったら外はパラパラと雨が降っていました。

少量の雨で、返って暑さが増した感じです。

私は散策をやめて、早々に帰って来ましたが、辛抱、辛抱、もう少しの辛抱です。

博学のAさんの家の近所では、夜になると虫の声が聞こえ始めたそうです。

 

今日も楽しい一日でした、優しい一日でした。

明日も、心いやされる一日が訪れますように。

 

追記、

「旧かけふ日記」は、個性豊かなHさんのメールです。

読んでみて下さい。