かけふ日記

70代ゲイが世界の片隅で吠える

曖昧模糊   日曜日

かけ湯かかり湯って同じ意味か? 違う意味か?

 昨日の日記で、浴槽に入る前に体に湯を掛けるという意味で「かけ湯」と書きたいところを、「かかり湯」と書いてしまったので、「かけ湯」と書き直しました。

ところがサイトによっては「かけ湯」と、「かかり湯」は同じ意味だと書いているサイトもありました。

本当に正しいのは、どっちでしょう?

日本語ってどうして、こんなにややこしいのでしょう。

 

 今日の朝刊の8面の「あすへの考」のコーナーで「変わる言葉 正誤より共感」と題する寄稿が載っていました。

寄稿の内容は、新しい言葉や、意味が生まれ、皆に親しまれて普及する。

 時代によって言葉の意味が変わって行き、相反する意味が世の中でまかり通るとし、その例として先ずは「姑息(こそく)」、そして「一時しのぎ」、そして「役不足

 言葉の変化では、「なにげなく」が「なにげに」や、「中途半端でない」が「半端ない」となって行く。

 誤解されやすい言葉では「情けは人の為ならず

言葉は生きているので本来の意味も、新しい意味も、どちらも間違いとはいえない

とのこと。

 なんとなく、曖昧模糊(あいまいもこ)としているけれど、多分、人それぞれの生き方も同じだろうなと、私は思います。

その人が起こした行動も、その人が良かれと思って行動したのだから、誰も批判は出来ないでしょう。

彼の選択した道であり、結果は彼が摘み取るのですから。

 

 今日の午前中、昨日、電話で話したAちゃんからビデオ電話がかかって来ました。

大阪市のプレミアム付商品券が当たったよ」と、通知ハガキをレンズに向けて振り、嬉しそうに報告するのです。

あれ、昨日、電話で当たったことを教えてくれたのに?と、私は驚きました。

Aちゃんは昨日、私と電話で雑談をしてことを覚えていないのでしょうか?ビックリ。

 

 Aちゃんに「昼間は何をしているの?」と聞いたら、「昔の映画や、テレビドラマを見たり、寝たりしている」と言い、今はアメリカの人気テレビドラマ「逃亡者」のシリーズを見ているそうです。

「逃亡者」にはまっているそうです。

そう、人それぞれ、曖昧模糊。

人の生き方は、批判をするのではなく、理解をし認めなくてはいけません。

 

 今日、Bちゃんが遊びに来てくれました。

Bちゃんと会うのは今日で2回目。

始めて私の家に来ましたが、Bちゃんは遠慮しいで、私に対して色いろ気を使っていました。

Bちゃんは、私は聞きもしないことを何でも正直に話すので私は面食らってしまいます。

そして、最後に「今度は僕の所に来てね」と言って、帰って行きました。

 お互いに批判的な心で付き合えば粗(あら)も見えるでしょうが、相手を認めて、お互いに深入りをせず真摯に付きあうことが出来たら良いなーと、思いました。

 

 今日も日が暮れて秋の夜長の始まりです。

今日は一日、何をしかを、有意義に過ごしたかなどを考えても詮無いことです。

人生って長いようで短く、曖昧模糊としたものですから。

 

明日も、今日以上にモリモリ命を燃やして生きられたら良いですね。